今やテレビで見ない日はないほどの大人気コンビとなったオードリー。若林正恭さんと春日俊彰さんの絶妙な掛け合いは多くの人を魅了していますが、彼らには「ナイスミドル」というコンビ名で活動していた長い下積み時代がありました。
当時は現在の「ズレ漫才」とは全く異なるスタイルで、試行錯誤を繰り返していたといいます。この記事では、オードリーのナイスミドル時代にスポットを当て、当時のネタの内容や苦労、そして現在のスタイルに至るまでの驚きの変遷を詳しく紹介します。
お笑いファンなら知っておきたい、彼らの原点にある「暗黒期」とも呼ばれる時代の物語を、芸人ディープ図鑑として丁寧に解説していきましょう。これを読めば、今のオードリーがなぜこれほどまでに面白いのか、その理由が見えてくるはずです。
オードリーが2000年に結成してから、2005年に現在のコンビ名に改名するまでの約5年間、彼らは「ナイスミドル」として活動していました。この時代の彼らは、今のスタイルからは想像もつかないような、いわば「普通」の芸人になろうとしていた時期です。
当時のネタは、若林さんが必死に模索していたものの、なかなか観客に受け入れられず、ライブでも最下位が続くなど厳しい状況でした。まずは、ナイスミドル時代にどのようなネタを披露していたのか、その中身を見ていきましょう。
結成当初のナイスミドルは、当時の流行でもあった正統派のしゃべくり漫才をベースにしていました。テンポの速い掛け合いや、理論的な構成を目指しており、若林さんが緻密に台本を書いていたのが特徴です。
しかし、当時の若林さんは「正解」を求めるあまり、自分たちの個性を消してしまっていました。他の人気芸人のスタイルを模倣したり、セオリー通りのツッコミを入れようとしたりと、どこか「借り物の芸」という印象が強かったといいます。
その結果、舞台に立っても観客の反応は薄く、笑いが起きないどころか、若林さんの尖った空気が会場を冷え込ませることも珍しくありませんでした。自分たちの面白さを信じながらも、結果が出ないもどかしさを抱えていた時代です。
驚くべきことに、ナイスミドル時代の初期は春日さんがツッコミで、若林さんがボケという役割でした。現在の春日さんからは想像もできませんが、当時は普通にスーツを着て、若林さんのボケに対して一生懸命ツッコミを入れていたのです。
しかし、春日さんのツッコミはリズムが悪く、若林さんのボケを殺してしまうことが多々ありました。若林さんは当時の春日さんに対し、「なんで普通に突っ込めないんだ」と苛立ちを感じることも多かったと後に振り返っています。
春日さん自身もツッコミとしてのアイデンティティが見いだせず、舞台上でおどおどしてしまうこともありました。この役割の不一致が、ナイスミドルがなかなか売れなかった大きな要因の一つと言えるでしょう。
漫才で結果が出ない中、彼らはアメフト部出身という経歴を活かした「アメフトネタ」にも挑戦しました。アメフトの防具を身につけ、激しい動きを取り入れたネタでしたが、これもお笑いとしての評価は芳しくありませんでした。
さらに、コントにも取り組んでいましたが、若林さんの書く設定がシュールすぎたり、逆にベタすぎたりと、方向性が定まっていませんでした。何をやっても手応えが得られない、まさに暗中模索の時期が長く続いたのです。
当時は「自分たちが面白いと思うこと」と「観客が笑うこと」の乖離に苦しんでいました。ナイスミドルという名前の通り、少し落ち着いた大人の笑いを目指していたフシもありましたが、実態は若さゆえの迷走そのものでした。
【ナイスミドル時代の主なネタ構成】
・基本スタイル:正統派しゃべくり漫才(春日ツッコミ・若林ボケ)
・衣装:普通のスーツや私服に近いスタイル(現在のピンクベストはなし)
・特殊ネタ:アメリカンフットボールの防具を着用した肉体派ネタ
・評価:ライブでのアンケート順位は常に低迷し、「死神」と揶揄されることもあった
ナイスミドルの歴史を語る上で欠かせないのが、彼らの出会いと結成までの経緯です。二人は日本大学第二中学校・高等学校の同級生であり、お笑い芸人としてのキャリアはこの固い絆からスタートしました。
なぜ「ナイスミドル」という名前になったのか、そして若林さんがなぜ春日さんを相方に選んだのか。そこには、後のオードリーの片鱗を感じさせる不思議なエピソードが隠されています。
若林さんと春日さんは、中学時代からアメフト部で苦楽を共にした仲でした。当時からクラスの人気者だったわけではなく、どちらかといえばスクールカーストの端にいるようなタイプだったと本人は語っています。
しかし、二人の間では独特の笑いの感性が通じ合っており、放課後に部室で話している時間が一番楽しかったといいます。この「部室のノリ」こそが、後のオードリーのスタイルの根底にある共通言語となりました。
高校卒業後、若林さんはお笑いの道を志しますが、当初は春日さんではない別の人とコンビを組むことも考えていました。しかし、最終的には一番気心の知れた春日さんを誘うことに決めたのです。
若林さんが春日さんをお笑いの世界に誘ったとき、実は明確な勝算があったわけではありませんでした。若林さんは春日さんのことを「自分の言うことを何でも聞く、扱いやすい男」だと当時の傲慢な自分は思っていたと明かしています。
また、春日さんがどんなに無茶な振りをしても動じない性格であったことも、誘う決め手になったようです。当時の春日さんは、お笑いに強い情熱があったわけではなく、「若林が言うなら」という軽い気持ちで承諾したといいます。
この時の若林さんの「上から目線」と、春日さんの「受動的な姿勢」が、ナイスミドル時代のパワーバランスを決定づけました。しかし、この歪な関係性が初期のネタ作りにおいて、逆に足かせとなってしまった面も否定できません。
コンビ名の「ナイスミドル」という由来については、深い意味があったわけではありません。若林さんが適当に「かっこいいおじさん」のようなイメージで名付けたと言われています。
しかし、20代前半の若者が名乗るには少し渋すぎる名前であり、当時の彼らの若々しさや勢いとはどこかチグハグな印象を与えていました。この名前が象徴するように、当時の彼らは「等身大の自分たち」を表現できていなかったのです。
事務所の先輩などからも「名前が古臭い」と指摘されることがありましたが、しばらくはこの名前で活動を続けました。自分たちのスタイルが確立されていない時期だったからこそ、名前にしがみついていたのかもしれません。
ナイスミドルという名前は、実は若林さんが「響きがいい」という理由だけで選んだものでしたが、後のオードリー(Audrey Hepburnから命名)への改名によって、運命が大きく変わることになります。
ナイスミドルとしての活動は、華々しいテレビ出演とは無縁の、過酷な下積み生活の連続でした。彼らが現在の地位を築くまでに、どれほど過酷な状況を生き抜いてきたのかを振り返ると、その不屈の精神に驚かされます。
当時の彼らにとって、ライブに出演することさえ容易ではありませんでした。ここでは、売れない時代の彼らがどのような場所で、どのような思いで芸を磨いていたのかを具体的に見ていきましょう。
初期のナイスミドルは、ライブハウスでの出演機会も限られていたため、渋谷のハチ公前や109の前で路上ライブを行っていました。しかし、通行人の足を止めるのは至難の業で、誰にも見向きもされないことも多々ありました。
時には、客が一人もいない状態でネタを披露し続けることもあったといいます。そんな状況でも、若林さんはノートにびっしりと反省点を書き込み、春日さんはただ黙々とそれに従うという日々が続いていました。
この路上ライブでの経験が、後にどんなにアウェイな環境でも動じない「舞台度胸」を養ったことは間違いありません。しかし当時は、将来への不安と羞恥心に押しつぶされそうな毎日だったと語られています。
ナイスミドル時代にも、わずかながらテレビ出演のチャンスはありました。深夜のネタ番組やオーディション番組に出演することもありましたが、結果は散々なものでした。
当時の映像を振り返ると、若林さんは緊張で顔が強張り、春日さんは現在の堂々とした姿とは正反対の、自信なさげな表情を浮かべています。審査員からの評価も厳しく、「何を伝えたいのかわからない」と切り捨てられることもありました。
一度、大きなチャンスが巡ってきた際も、ネタが全くウケずに終わってしまい、若林さんは楽屋で深く落ち込んだといいます。テレビの壁の厚さを痛感させられたのが、このナイスミドル時代でした。
当時の若林さんは、あまりの売れなささとストレスから、舞台上で「死神」のような目つきをしていたと言われています。笑わせようとしているはずなのに、どこか観客を威圧するような、暗いオーラを放っていたのです。
「自分たちはこんなに面白いのに、なぜわかってくれないんだ」という世の中への不満が、顔に出てしまっていたのでしょう。ライブ仲間からも「あいつらは近寄りがたい」と思われていた時期もありました。
一方の春日さんは、そんな若林さんの横で淡々と過ごしていましたが、それが逆に若林さんの焦りを加速させていました。コンビ間の空気も決して良いとは言えず、解散を考えたことも一度や二度ではなかったはずです。
若林さんは当時のことを「自分の中に牙がありすぎて、それが観客に突き刺さってしまっていた」と表現しています。この「牙」が、後に毒舌や鋭い観察眼という形でプラスに働くようになります。
2005年、彼らにとって最大の転機が訪れます。それが「オードリー」への改名と、それに伴う芸風の劇的な変化です。この変化がなければ、現在の国民的人気コンビとしての彼らは存在しなかったでしょう。
なぜ彼らは名前を変え、そしてどのようにして唯一無二の「ズレ漫才」にたどり着いたのでしょうか。そこには、事務所社長の一言と、若林さんの死に物狂いの自己分析がありました。
コンビ名を「ナイスミドル」から「オードリー」に変えたのは、所属事務所ケイダッシュステージの佐藤大介社長(当時)の助言がきっかけでした。社長から「名前が地味すぎる。もっと華のある名前にしろ」と言われたのです。
いくつかの候補の中から、社長が「オードリー(オードリー・ヘプバーンから引用)」を選びました。若林さんは当初、「自分たちのような地味な芸人がオードリーなんて」と戸惑ったそうですが、これが結果的に大きな転機となりました。
名前が変わったことで、彼らの中にあった「古い芸人像」への固執が薄れ、新しいことに挑戦する心理的な土壌が整ったのです。名が体を表すように、彼らの芸風にも「華」を求める意識が芽生え始めました。
改名後、若林さんはついに「春日という素材」を正しく活かす方法を見つけ出します。それが、春日がわざと変なタイミングでボケ、若林がそれに振り回されながらも厳しくツッコむ「ズレ漫才」の形でした。
それまでの正統派漫才を捨て、春日の異質さを前面に押し出すスタイルへの変更は、若林さんにとって大きな賭けでした。しかし、これがライブで爆発的な笑いを生むようになります。
春日さんが自信満々に胸を張り、ゆっくりと舞台に登場する。そして、若林さんの話を無視して自分の世界に没入する。このキャラクターの構築こそが、彼らが長年探し求めていた「正解」だったのです。
ナイスミドル時代、春日さんは「ただの無能な相方」という評価をされることもありました。しかし、若林さんがプロデューサー的な視点で春日さんを演出し始めたことで、彼の潜在的な能力が開花します。
ピンクのベストを着用し、髪型を七三分けに固定。そして「トゥース!」や「アパス!」といったフレーズを開発。これにより、春日さんは一躍「怪物」的なキャラクターとして認知されるようになりました。
若林さんもまた、春日さんのボケに対して冷徹かつ愛情のあるツッコミを入れることで、自らの存在感を高めていきました。二人の個性がようやく噛み合い、爆発的なエネルギーを生み出した瞬間でした。
| 項目 | ナイスミドル時代 | オードリー(現在) |
|---|---|---|
| 役割 | 春日ツッコミ・若林ボケ(初期) | 春日ボケ・若林ツッコミ |
| スタイル | 正統派・アメフトネタなど | ズレ漫才(キャラ漫才) |
| 衣装 | 地味なスーツ・私服 | ピンクベスト・七三分け |
| 雰囲気 | 暗い・トゲトゲしている | 自信満々・楽しそう |
オードリーの二人がラジオやエッセイで時折語るナイスミドル時代の思い出は、苦労話でありながら、どこか温かみを感じさせるものばかりです。その根底には、二人が共有してきた時間の積み重ねがあります。
売れない時期を共に過ごしたからこそ、今の強い信頼関係があるといっても過言ではありません。ここでは、ファンの間で語り継がれている、当時の象徴的なエピソードをいくつかご紹介しましょう。
春日さんが長く住んでいたことで有名なアパート「むつみ荘」は、ナイスミドル時代からの彼らの拠点でした。狭い部屋に若林さんが通い詰め、夜な夜なネタ合わせを行っていました。
若林さんは当時のことを「あの狭い部屋で、春日のつまらないツッコミを何度も聞きながら、どうすれば面白くなるか悩み抜いた」と語っています。極貧生活の中、二人はコンビニの菓子パンを分け合うような生活を送っていました。
この時代のハングリー精神が、今の彼らの仕事に対するストイックな姿勢を作っています。むつみ荘は単なる古いアパートではなく、オードリーという伝説が生まれた聖地ともいえる場所なのです。
ナイスミドル時代、彼らは事務所の先輩である原口あきまささんや、はなわさんなどにかわいがられていました。しかし、なかなか売れない彼らを周囲は心配し、時には厳しい助言を送ることもありました。
同期の芸人たちが次々とテレビに出始める中で、自分たちだけが地下ライブに出続ける日々は、若林さんにとって耐えがたい屈辱でした。ライブ後の飲み会でも、若林さんは隅の方で不機嫌そうに酒を飲んでいたといいます。
しかし、そんな若林さんを春日さんは一切責めることなく、いつも通りの態度で接していました。この春日さんの「変わらなさ」が、若林さんの精神的な支えになっていたのは間違いありません。
若林正恭さんは、文筆家としても高い評価を得ていますが、その著書の中でもナイスミドル時代の苦悩がたびたび描かれています。当時の彼は、社会に対する強い疎外感を抱いていました。
「自分は社会の歯車になれない」という絶望感と、「でもお笑いで証明したい」という執念が交錯していた様子が、繊細な筆致で綴られています。ナイスミドルという名前を捨てるとき、彼は過去の自分自身と決別する決意を固めていました。
彼のエッセイを読むと、ナイスミドル時代は単なる「失敗の時期」ではなく、自分の内面を深く掘り下げるために必要な準備期間であったことがわかります。その深い洞察が、今の若林さんの言葉の重みにつながっています。
【オードリーのブレイク前夜】
・2008年、M-1グランプリの敗者復活戦から決勝へ進出。
・初登場で衝撃的な「ズレ漫才」を披露し、準優勝を果たす。
・この一夜にして、8年間の「ナイスミドル時代」の苦労が報われることになった。
オードリーの「ナイスミドル」時代は、決して華やかなものではありませんでした。春日さんがツッコミを担当し、若林さんが「死神」のような目をして舞台に立っていたあの5年間は、世間的には「売れない不遇の時代」に見えるかもしれません。
しかし、その時代があったからこそ、若林さんは自分たちの強みを冷静に分析する力を養い、春日さんは唯一無二のキャラクターを確立することができました。自分たちの個性を消して「正統派」になろうとして失敗した経験が、結果的に「自分たちらしさ」を追求する現在のスタイルを生んだのです。
ナイスミドルという名前を捨て、オードリーとして生まれ変わった彼らの軌跡は、諦めずに試行錯誤を続けることの大切さを私たちに教えてくれます。今の彼らの活躍を支えているのは、間違いなくあの路上で誰にも見向きもされなかった時代の記憶です。
次にオードリーの漫才を見る時は、ぜひ彼らの背後にある「ナイスミドル時代」の苦闘を感じてみてください。そうすることで、彼らの掛け合いがより一層深く、味わい深いものに感じられるはずです。